2016年12月28日
どちらにしようかと迷ったら「 」を基準に選ぶ
ラジオ番組内容から
落語家の桂春蝶(しゅんちょう)さんが、まだ学生のときにさだまさしさんの歌に感動し、思いをつづった葉書を書きます
さださんからお礼の丁寧な葉書があり、これから頑張ってほしいとの応援のことば
その中の文章の一節
「私はどちらかにしようかと迷ったら、美しいものを選ぶようにしてきました」
これまでいろいろな選択の方法・基準を、本などで目にしてきました
損得よりも善悪、人として正しいかどうか・・
ものの判断基準が「美しいものを選ぶ」 こういった基準は初めてです
そういったものから、案山子・雨やどり・秋桜など美しい歌が生まれたんでしょうね
さださんの作った歌は、歌というよりも詩(うた)の字があっています
秋桜(コスモス)は、山口百恵さんに作った時に、コスモスを秋桜との当て字にしたのが最初だそうですが、今は普通に使われています
この言葉の使い方も、つねに美しいものとの視線から生み出されたものなのでしょうね
ご自分なら、ものの判断の基準に何を選ばれますか?
このブログは、面白いところは全くなく(>_<)、初めから多くの方に見ていただくような、たぐいのものではありません
以前に普通の主婦のスイーツ巡りのブログがアクセス数500を超えているのを見て一瞬羨ましいな・・と思いましたが、それは自分が心から選びたいものではないと考えなおしました
世間や周りの人の基準よりも、自分の基準で・・
(一瞬ぐらつきましたが)
もし、お一人でも心温かく、前に進む勇気を持っていただけたら、とてもうれしく思います
来週は帰省で1週間ブログ冬眠します
今年1年の間に一度でも見て頂いた方に、心から感謝を
来年1年も素晴らしい1年に
Posted by 尾上 正 at
07:04
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2016年12月21日
かけがえのない贈り物
メールマガジンからそのまま引用
ボクが10歳のときのクリスマス・イブだった。
「クリスマスには、ちょっとぜいたくをしてごちそうを食べようね」
何週間も前から、母は繰り返しそう言った。
飲食店勤務の忙しい仕事にどうにか都合をつけて、母はクリスマスをボクと過ごす約束をしてくれていた。
イブの日の午後、母とボクは、クリスマスの買い物をするためにふたりで街にでかけた。
ボクは小さい頃の交通事故で左足が動かなくなっていたので、歩くためには、松葉杖が必要だった。
肩を上下にゆすり、片足 をひきずりながらも、横を向くとそこにいつも母の顔がある。
だからボクは母と歩くのがとても好きだった。
ウキウキとするボクの気持ちとは裏腹に、その日の母の横顔は、笑顔でも隠せないほどに疲れていた。
この日の休みをもらうために、母は昨夜もかなり遅くまで働いていたのだ。
アパートを出てしばらくも経たないうちに、いつもなら横にいる母の姿が突然に消えた。
ふり返ると数メートル後ろに、うつぶせになって母が倒れていた。
「お母さん!」 母の視線のさだまらない目がボクを探していた。
「どうしたの?お母さん」
ボクの手を握ると、母は何かを言いたそうにしたのだが、言葉 にすることはできなかった。
近所の人が呼んでくれたのか、けたたましく救急車がやってきて、ボクたちは病院に運ばれた。
病院の待合室で、ボクはなすすべもなく、椅子に腰掛けていた。
女性の看護師さんがやってきて、ボクの横に腰をおろした。
「ぼうや、お家はどこ?お父さんに連絡できる?」
「……お父さんはいません。死んだんです。交通事故で……」
「えっ、……じゃあ、他に誰か連絡のとれる人、いる?」
ボクが黙って首を振ったので、看護師さんも黙りこんでしまった。
ボクは思い切って尋ねた。「お母さん、だいじょうぶですか。会えないんですか?」
看護師さんは、母が脳出血となり、いま難しい手術をしているのだと少年のボクにもわかるように説明してくれた。
「お母さんも死んじゃうんですか?」 看護師さんは大きく何度も首を振った。
「そんなことない、そんなことないように、手術をしているのよ」
けれど、手術はなかなか終わらなかった。
待合室で、ボクは何時間も何時間も、ひとりで待った。
どこか遠くで楽しそうな音楽が聞こえてきて、今日が何の日だったかを思い出した。
本当なら、今頃はにぎやかな音楽を聞きながら、母が作ったごちそうを食べていたのに。
そう思うと、おかしいやら悲しいやらで、泣きそうになった。
世界中で母とボクだけが不幸なのかもしれない、そうならないように、そう思わないように涙をこらえた。
夜になると、待合室の窓の外に遠く、前に母と行ったことのある教会の灯りが見えたような気がして、ボクは思わず目をこらした。
あの日、教会で母はひざまずいて長い間祈っていた。
「何を祈っていたの?」と聞かなくても、母がボクのために祈ってくれていたことを知っている。
母はボクのために働き、ボクのために笑い、ボクのために怒って、ボクのために泣いてくれた人だったから。
そんな母に、ボクは何もしてあげていなかった。
それどころか、わがままばかりだったことを悔やんだ。
母を失いたくなかった。
だからボクは自 分でも驚くほど真っ直ぐな気持ちになって、あんな事を言ったのだろう。
そして10歳のボクにできることは、それしかなかったのだ。
「サンタさん、サンタさん、いるんでしょう。
サンタさんは、ボクがいい子にしていたら、プレゼントをくれんるですよね。
そうでしょう?
サンタさん、ボク、プレゼント、いりません。
もう、一生、何もプレゼントはいりません。
そのかわり、お母さんを助けてください。
ボク、いい子になります。
一生けんめいがんばって、いい子になります。
もっと、もっといい子になります。
だから、お母さんを助けてください。
おねがいします。おねがいします。
お母さんを助けてあげてください。」
あのイブの日から、十数年の月日が経った。
ボクはいつしか大人になって、就職し、同じ職場の笑顔のすてきな女性と結婚した。
そして、今年、ボクらの初めての子どもが生まれた。
母は「赤ん坊の頃のおまえそっくりだよ」とよく笑う。
ボクが一生プレゼントはいらないと言ったから、サンタさんからクリスマスプレゼントをもらうことはもうなかった。
でも、ボクはあのクリスマスの日以来、気づいた。
そして、心から感謝した。
クリスマスどころか、ボクは毎日プレゼントをもらっていたのだ。
愛する人たちの大切な命、そして、このボクの命。
そう、ずっと毎日、かけがえのない贈り物をもらい続けてきたのだ。
幸せは、求めるものではなく、気づくものだといいます
サンタは、目の前にいます
今周りの人・周りのものが、毎日プレゼントを届けてくれています
もうすぐ、クリスマス
あなたに、素敵なハッピークリスマスになりますように
Posted by 尾上 正 at
06:49
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2016年12月14日
劣等感とは、どこからくるのか?
ラジオ番組内容から
人よりも“劣る”と感じているのなら、“劣感”でいい
なぜ、劣等感と、間に“等しい”という文字が入ると思いますか
それは、自分とあまり変わらない立場の人に、思う気持ちから起こるからです
自分と、あまりにも距離が離れている人には、劣等感は起こりません
自分と、同じ線上にある人に差をつけられると・・・
その裏には、その人のようになりたい・・との思い
自分とかけ離れた人とはあまり比較の気持ちは起こらないはず・・
マラソンでいえば、はるかに先を走っている人と競う気持ちはあまり起こりません
自分と近い人との競争・・
これだと、どこまでいってもきりがないかも
ある80歳を超えた高名な僧侶が、
「この年になって物欲や食欲などの欲はなくなりました。
でも、同じくらいの年の知った僧侶が社会で大きく取り上げられたりすると、
心の奥でザワザワと嫉妬の心が出てくるのです。
嫉妬というものは、人の奥底でなかなか消えないものなのです・・」
人の我って、そうは消えないですね
人と比較して劣等感を持っても、自分自身のタイムは伸びない
今までの自分より、1メートルでも先へ
Posted by 尾上 正 at
06:41
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2016年12月07日
返謝とは?
繁栄の法則から
感謝というものは、ありがたいという心で思うだけではなくて、ありがたいと思ったことを、人にも同じ喜びを与えて初めて感謝が完成するものです
つまり「返謝」が大切なのです
「感謝、感謝」と言って人から与えられるばかりだと、返すこができなくなります
もらうことに慣れてしまうことがあるからです
私の周りには“ありがとう”をたくさん言う人がいます
その方は「ありがとうございます」と、もらう世界に慣れて、ありがとうと言ってもらえる世界に住んでいないのです
ありがたいと思ったら、優しさや知恵や助けをもらったら、必ず返すことです
同じ喜びを人に与える
返謝で感謝は完成します
「ありがとうと言ってもらえる側に立つ」方が難しいのです
そこに立つと、あなたは輝き始めます
以前に映画で、人から少しでも良いことをしてもらったら、周りの人に3倍返そう・・
その人も、周りの人に3倍返そう・・
そんな世の中なら、どんなに素敵な世の中に
今まで生きてきて、どれだけの命の恵みをいただいて、自分の命を繋いできたのか
どれだけの人の恩をいただいて、暮らしてきたのか
冷静に考えると、とっても返せないと思いますが、
今目の前の人に、ちょっとしたことから始めよう
ルミナリエ2016
Posted by 尾上 正 at
06:50
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