2020年03月11日
母という愛の存在
リリー・フランキー著「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」から
「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」
石川啄木が目を潤ませて立ち止まったように、誰しもがかつて大きかったはずの母の存在を、小さく感じてしまう瞬間がくる。
大きくて、柔らかくて、あたたかだったものが、ちっちゃく、かさついて、ひんやり映る時がくる。
それは、母親が老いたからでも、子供が成長したからでもない。
きっとそれは、子のために愛情を吐き出し続けて、風船のようにしぼんでしまった女の人の姿なのだ。
五月にある人は言った。
どれだけ親孝行をしてあげたとしても、いずれ、きっと後悔するでしょう。
あぁ、あれも、これも、してあげればよかったと。
「成功者」と呼ばれる人たちの多くは、母親をとても大切にするといわれています
マザコンという意味ではなく、自分の存在を生み出してくれたことに対しての感謝の心が強いから
母親の体が小さくなってしまうのは、いろいろなものを与え続けてきたからなのかもしれません
その恩返しはとてもできなくても、自分自身が幸せであることが、一番の親の喜びになるのでしょうね
Posted by 尾上 正 at 07:02│Comments(0)