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2020年04月29日

日本でもっとも大臣を輩出した塾とは

ひすいこたろう著 「人生最後の日にガッツポーズで死ねるたったひとつの生き方」から

わずか2年ほどしか存続しなかった 、吉田松陰の田舎の小さな松下村塾から、革命家・玄瑞、高杉晋作を生み出し、伊藤博文、山縣有朋という、ふたりの内閣総理大臣まで輩出しています。

田舎の小さな塾から総理大臣をふたりも出したら、その塾はなんなんだとなりますよね?

そんな伝説の塾が松下村塾なのです。

さらに名をあげるなら、内務大臣になった品川弥二郎、野村靖

司法大臣となり、また日本大学と國學院大学を創立した山田顕義

外務卿として条約改正に活躍した井上馨

初代長崎造船局長となった渡辺高蔵

現在の東京工業大学の初代校長、正木退蔵など、

小さな田合塾から、目が眩むほどキラ星のごとく偉人を輩出しています。

しかも、塾のリーダー格の人間は明治維新前に、ほとんど戦死しているにもかかわらずです。

この時代、萩では裕福な家の子は明倫館に通います。

だから、松下村塾に通うのは、歩いて通ってこられる範囲の、身分の低い田合のご近所さんばかり。

しかしご近所さんたちは、吉田松陰と触れたことで続々と生まれ変わり、歴史に残る偉人に成長していったのです。

いうなれば、萩市3丁目の皆様が日本を変えてしまったのです。

3丁目っていうのはたとえですけどね。

すべての人に「真骨頂」がある。

松陰が心からそう信じていたから、3丁目の住人が続々、偉人になっていったのです。

だから、3丁目っていうのはたとえですけどね(笑)。



20年ほど前に、山口県萩市に旅行に行ったことがあります

松下村塾や伊藤博文生家などが再現され、公開されていました

ちょっとびっくりしたのが、明治の歴史に名を残す人たちが、歩いて行けるどころではなく、目に見える狭い範囲で住んでいたことです

今の時代でいえば、町内会の有志が、日本を変えたってことでしょうか

現代でも、松下政経塾から、野田佳彦元総理大臣が生まれています

思いの強さが歴史を作っていきます

大変な時代だからこそ、人の教育が大切です

大変な時代だからこそ、人とのつながりが大切だと思いますね
  


Posted by 尾上 正 at 07:30Comments(0)

2020年04月22日

昆虫の母の愛

稲垣 栄洋著 「生き物の死にざま」から

ハサミムシの卵の期間は、昆虫の中でも特に長く四十日以上もあるとされている。

長い場合は、卵がかえるまでに八十日かかった観察もある。

その間、片時も卵のそばを離れることなく、卵を守り続けるのである。

そして、ついに卵がかえる日がやってくる。

待ちわびた愛する子どもたちの誕生である。

しかし、母親の仕事はこれで終わりではない。

ハサミムシの母親には、大切な儀式が残されている。

ハサミムシは肉食で、小さな昆虫などを餌にしている。

しかし、孵化したばかりの小さな幼虫は獲物を獲ることができない。

幼虫たちは、空腹に耐えながら、甘えてすがりつくかのように母親の体に集まっていく。

これが儀式の最初である。

いったい、何が始まろうとしているのだろうか。

あろうことか、子どもたちは自分の母親の体を食べ始める。

そして、子どもたちに襲われた母親は逃げるそぶりも見せない。

むしろ子どもたちを慈しむかのように、腹のやわらかい部分を差し出すのだ。

母親が意図して腹を差し出すのかどうかはわからない。

しかし、ハサミムシにはよく観察される行動である。

何ということだろう。

ハサミムシの母親は、卵からかえった我が子のために、自らの体を差し出すのである。

そんな親の思いを知っているのだろうか。ハサミムシの子どもたちは先を争うように、母親の体を貪(むさぼ)り食う。

残酷だと言えば、そのとおりかもしれない。

しかし、幼い子どもたちは、何かを食ベなければ飢えて死んでしまう。

母親にしてみれば、それでは、何のために苦労をして卵を守ってきたのかわからない。

母親は動くことなく、じっと子どもたちが自分を食べるのを見守っている。

母親は少しずつ少しずつ、体を失っていく。

しかし、失われた体は、子どもたちの血となり肉となっていくのだ。

遠ざかる意識の中で、彼女は何を思うのだろう。

どんな思いで命を終えようとしているのだろうか。

子育てをすることは、子どもを守ることのできる強い生き物だけに与えられた特権である。

そして数ある昆虫の中でもハサミムシは、その特権を持っている幸せな生き物なのである。

そんな幸せに包まれながらハサミムシは、果てていくのだろうか。

子どもたちが母親を食べ尽くした頃、季節は春を迎える。

そして、立派に成長した子どもたちは石の下から這い出て、それぞれの道へと進んでいくのである。

石の下には母親の亡骸を残して。



命あるものは、子供を愛するように遺伝子に刻み込まれるているように思います

ただ、人間の世界では、心を痛めるような、いじめや虐待の記事が後を絶ちません

子供のために・・が、自分のために・・と、はき違えてしまうこともあるとも思います

自然の中に学ぶことも多いと思いますね



  


Posted by 尾上 正 at 08:20Comments(0)

2020年04月15日

「明るくないとやっていけないくらい、暗いことを知っている」

日本経済新聞  映画「ちむりぐさ 菜の花の沖縄日記」紹介記事から

故郷の北陸の学校でいじめられた15歳の少女が、沖縄のフリースクールに転向し、沖縄戦のために学校に通えなかったお年寄りとの交流で、その痛みを肌で感じ取る。

北陸中日新聞のコラムに書き続けた、坂元 菜の花さんのドキュメンタリー

学校では80歳を超す老人たちが読み書きを習っている。

戦争の被害者なのに、表情はことのほか明るい。

「どうしてみんな明るいんだろう」

菜の花の素朴な疑問は少しずつ解かれていく。

「明るくないとやっていけないくらい、暗いことを知っている」からだ。

「ちむぐりさ」とは、誰かの心の痛みを自分の悲しみとして共に心を痛めるという意味のウチチーグチ



戦時中は、本土の盾にされ、3分の1もの方が亡くなられました

基地問題

騒音問題

米軍軍人の女子小学生暴行事件

ヘリ墜落事故

問題はなお残り続けています

多くの悲しみの中に、強さと明るさを持つ方たち

辛いからこそ、優しくなれる

心の奥に痛みを持ちながらも、満面の笑みで微笑みかける人たち・・

本当に強いなと思います  


Posted by 尾上 正 at 08:15Comments(0)

2020年04月08日

お天気は人生を教えてくれる

志賀内 泰弘著 「気象予報士のテラさんと、ぶち猫のテル」から

話の中で、気象予報士の寺田直之介氏が、テレビでの天気予報のあとに、気象にまつわることわざ・偉人たちの名言を取り上げています

「雨は、一人だけに注ぐわけではない」 アメリカの詩人 ロングフェロー

「雨がなければ虹は見られない」 ハワイのことわざ

「雨垂れ、石をも穿つ(うがつ)」 
  あきらめないで続けよう。その向こうには必ず光がある

「樹静かならんと欲して風止まず」 中国の詩経にある言葉
  人は後悔の思いは静まれと願っても、風がやむことはない
  だからこそ、今日という一日後悔しないように生きよう

「欲と雪は積もるほど道を忘れる」 雪国地方の言葉

「お天とう様が見てるぜ」 寅次郎忘れな草の中での寅さんのセリフ

「夏炉冬扇」(かろとうせん) 中国の書の言葉
夏の囲炉裏や冬のうちわは役に立たない・・  
でもその時に役に立たなくても、必ず役に立つときがくる
日が当たる時が来ることを信じて、その時期をじっと耐えて待つことが大切

「下を向いていたら、虹を見つけることはできないよ」 
 チャールズ・チャップリン

「凧が一番高く上がるのは、かぜに向かっているときである。風に流されているときではない」
 W・チャーチル イギリスの政治家

「明日は明日の風が吹く」 風と共に去りぬ



今、雨が降っていても、強い風が吹いていても、いづれやむ時が来る

それが、恵みの雨にもなっているということを、自然から学んでいたのでしょうね


昨日の夜、夜空に国際宇宙ステーションが肉眼で見えました

空の上から、下の世界を見守ってくれています



  


Posted by 尾上 正 at 06:51Comments(0)

2020年04月01日

人生はおもろないといかん

NHKきょうの健康3月号から

心にしみいる数々の名曲を世に送り出してきた加藤登紀子さん。

歌手になったきっかけをくれたのは、父・幸四郎さんでした。

東大を目指していた私に、「女の子がそんな辛気臭いところに行ってどないするんや一」と言っていた父。

父に反対され、私は俄然やる気を出して、東大に入学しました。

二十歳になったときのこと。石井好子さん主催の日本アマチュアシャンソンコンクールに、父が私の出場を勝手に申し込んでしまったんです。
青天の霹靂、びっくりしました。 

そのとき父が言った言葉が、「人生はおもろないといかん」。このひと言が心に響きました。

「お前は難しい顔して頑張っているけれど、おもしろそうじゃない。将来幸せになりそうな気がしない。イチかバチかコンクールに挑んで、歌手になれ」と父は提案したんです。

私は音楽が好きでしたけれど、子どものころから声が低いというコンプレツクスがあって、「歌手になりたい」と思ったことは、全くなかったんです。

二十歳になったころの私はエディット・ピアフに心酔し、初めて大恋愛をして、いっぱしの女になった気持ちになっていたの。タイミングがよかったんですね。父の言葉にぎゅっと背中を押され、やる気になったんです。

思えば父は「人生はおもろないといかん」を実践して生きた人でした。

旧満州・ハルビンで暮らしていた私たち一家は、終戦後大陸から引き揚げ、帰国します。父は東京で音楽関係の仕事に就いたのですけれど、給料をもらえないのか、給料で飲んでしまうのか、わが家にはいつもお金がなかったの。

ある日、「会社を辞めた。京都の実家に引っ越すで。この家は売ったから、明日から住めへん」と父が宣言。

一家5人は京都へ。ところが、空き家になっていたはずの実家には住んでいる人がいて、両親と兄と姉、私の家族5人は裏庭の小屋に住むことに。

子どもたちにとっては楽しい暮らしでしたけれど。

父は常に意欲的で、やる気満々でした。歌謡学院を開校しますが、すぐに倒産。小さなわが家にピアノと電蓄が運び込まれ、いつも電蓄から音楽が流れていて。

「借金取りの電話がかかってきたら、『お父ちゃんはいません』と言いなさい」と教えられ、「お父ちゃんはいません、ごっこ」をして遊んだりして(笑)。笑いの絶えない家庭でしたね。
お酒が好きで、いつも機嫌がいい父でした。波乱万丈の人生を送った父の口癖は、「おもろいなあ、人生は」。そう言いながら、いろいろなことを乗り越えたのでしょうね。

母の淑子さんは、明るく温かく、何があっても動じない人で、忘れられない思い出があります。

私が小さいころ、ものすごい台風が来て、わが家の天丼が吹っ飛んじゃったんです。

母は台風一過の青空を笑顔で見上げ、「とこ、天丼がなくなって、明るくなったわよ― 気持ちいいよ」って。 入道雲

そのときの光景や母の言葉は、子ども心に鮮明に焼き付いていますね。

父と母は、大陸から引き揚げ生き抜いてきただけに、くよくよしてもしょうがない

「命があればいいやんか」という独特の明るさと強さがありましたね



お父さんの「人生おもしろないといかん」
お母さんの家の屋根が飛んで無くなっても「明るくなったわよー 気持ちいいよ」というその生き方に、加藤さんが強い影響を受けたのは間違いないと思います

今、世の中は暗いニュースが多くなっていますが、その中でも、どうとらえるか、どう行動するのかは自分で選べます

こんな時期だかにらこそ、前向きに明るく


大学時代の加藤登紀子さんと、父・幸四郎さん





  


Posted by 尾上 正 at 06:55Comments(0)