2018年12月26日
「天皇としての旅」
日本経済新聞記事から
天皇として旅を終わろうとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民の衷心より感謝する
「寄りそう」とよくいわれるが、その言葉よりもはるかに厳しい生き方かもしれない
「天皇としての立場にあることは、孤独とも思えるもの」と漏らされたことも理解できる
一人で耐えられる生き方ではない
陛下にとって幸運だったのは、「常に私と歩みをともにし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてくれた」皇后さまという「深い信頼」で結ばれた同志者を得たことだ
皇后さまあってこそ、「天皇としての旅」を続けることができたと感謝を述べられたとき、涙はなかったが、陛下は泣いているように見えた
まさに、お二人で作り上げた平成の象徴であった
陛下は「象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する」と述べられた
それは国民からおくる言葉でもある
平成の時代がもうすぐ終わります
天皇陛下は、その歩みを“旅”という言葉で表現されました
どのような“旅”であったのか
平成は戦争はありませんでしたが、災害は多くありました
私が住む兵庫の阪神淡路大震災では、被災地を見舞われた陛下が、ひざを地面につけて被災者を見舞われました
その初めは、美智子様が被災者に自然に近づいて、ひざまずいてお話しされたことからになります
そのあとに、天皇陛下も、被災者と同じ目線でお話をされるようになりました (それまでは昭和天皇と同じように、立ってお話をされていました)
皇族の一部からは、天皇が国民に対してひざまずくとは何事か・・との声もあったとか・・・
それでも、国民に対して、いつも“寄り添う”姿勢を貫いてこられました
天皇陛下をはじめ、この時代を生きぬいてきた人の力で作られた“平成”の時代でした
このあとの時代も、素晴らしい時代が来ることを望みます
来週は、ブログ年末休みです
よい年ををお迎えください
Posted by 尾上 正 at
06:53
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2018年12月19日
人と関わることは、後ろのドアを閉めること
到知1月号 野田元内閣総理大臣談話から
私は、親族に政治家もいなく、地盤、看板、鞄なしで、とにかく自分の話を聞いてもらいたくて、あらゆる力を総動員して公民館に人を集めようとしたんですが、たった一人しか来ない。
これではいつまで経っても政治家にはなれないと思い悩んで、松下幸之助さんに相談したんです。
すると無理して人を集めるのではなく、皿回しのように人がいる前で何かやればいい、とアドバイスをくださったんです。
ああなるほどと得心して、私はその時から毎朝街頭に立つようになりました。
一日十三時間ずっと喋り続けたら、朝は素通りした人も、夕方には「こいつ、まだやってる」と集まってくる。
最初のデビューで五百人くらい集まったんです。
公民館に一所懸命人を集めようとした時はダメだったけど、街頭で十三時間喋り続けたら人は集まってくる。
幸之助さんからいただいた作戦には、目から鱗が落ちる思いでした
地盤も看板も鞄も何にもなくても、工夫すれば道は拓けるんですね。
松下政経塾では、「常に志を抱きつつ懸命に為すべきを為すならば、道は必ず拓けてくる。成功の要諦は、成功するまで続けるところにある」と教わりましたけれども、幸之助さんの教えの一番大事な原点だったとしみじみ噛み締めています
昨日の勉強会である方が、「自分は今まで人とかかわるときには、少し逃げ道を作ってきた。関わるという言葉の意味を調べると、後ろのドアを閉めて最後まで付き合うということ・・という意味があった。これからは、真正面に向き合って接していきます」と話をされていました
朝7時から街頭で話し始めて13時間続けてということは、夜の8時まで街頭演説をするということになります
会社員が朝その姿をみてもおそらく、まったく関心を持ってもらえなかったはず
会社から帰るときに演説する姿を見て、あれっと思っても、人通りの多い朝と夜に街頭演説をしているんだな・・と思われたのでは
それが連日続けていると、朝から夜まで続けて演説していると周りもわかってくる
いったい何をそれほど訴えたいのか・・ 一度聞いてみようか・・
続けることは大切とはわかっていても、めげそうになることもあります
文章の中にもある、何が何でも成し遂げたいという“志”が、風が吹いても倒れない根を張り、強い幹を作っていくのだとも思います
Posted by 尾上 正 at
07:07
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2018年12月12日
心の傷が、人に深みを与える
伊集院 静氏 「いろいろあった人へ」から
この季節、大きな台風が日本に近づくと、四十数年前の夏がよみがえる。
四十四年前の七月、弟は一人で海へ出かけた。
台風が近づいていた。
瀬戸内海沿いの港町の、それも波音が聞こえる町で生まれ育った私も、弟も、台風がどれだけ危険かは幼い頃から十分過ぎるほど知っていた。
子供の頃、高潮で堤防が決壊し、生家も一階まで浸水したし、台風が来る度に必ず何人かの大人、子供が亡くなった。
台風だと聞いたら、海へ絶対に近づくんじゃないぞ。 一人で出かけたら承知せんぞ。
ガキの頃から耳にタコができるほど言われて来たことを海辺に住む子供は守った。それは生きる術でもあった。
なのに弟は隣町の浜へ行き、 一人でボートを漕ぎ出し沖へ出た。
なぜそんなバカなことを、と弟が死んだ後に何度も考えてみた。十七歳だった。
サッカーの選手で、あとで聞けば二年生ですでに中国五県のベストイレブンに選出されるほどの選手だったらしい。
弟は私と違っておとなしく、こころねのやさしいところがあった。
静かな者ほどいったん自信を持てば頑固な点がある。
しかし荒れはじめた沖合いに彼が一人でボートを漕ぎ出したのには他に理由があった。
当時、二十歳であった私が父と、家業を継ぐことで諍いになった。
父は激怒し、私を勘当し、弟を医者にさせ病院を経営する考えを弟に告げ、彼も納得した。私は家を出された身なので、それを知らなかった。
でも弟にも彼の人生の夢があった。
冒険家になる夢であった。彼はそれをかなえるべく冒険家になる体力を鍛えていたのだ。
少しでも時間ができれば筏を作ったり、ボートを漕ぎに行っていたらしい。
弟が行方不明の報せが入ったのは、その日の夕刻で、海の家の主人から弟がボートで沖ヘ行ったまま戻って来ていない、と報された。
私も夜の飛行機で山ロヘ向かった。
夜半の浜で二十数名の男たちが父を中心に捜索をはじめていた。
ボートはすでに空のまま浜へ揚がっていた。
両方の岬の岩場を中心に男たちが弟の名前を呼びながら波音の中を探した。
父は呉沖で戦艦陸奥の引き揚げをしていたサルベージ船を強引に呼んだ。
母は弟の名前を呼び、浜を一日中、雨に濡れ歩いていた。父に言われ、私は母を迎えに何度も浜へ出た。
十一日目の夜明け方、海に浮き上がった弟を見つけたのは母であった。
一瞬の浮上だから、船で急いで沖へ行き、私は海へ飛び込み弟を抱いた。すでに息絶えていた。
検死の医者が戸板の上の弟を診ている時、母は大声で言った。
「普段、身体を鍛えている子でございます。先生、どうか生き返らせて下さいませ」
あれから半世紀近くになったのだ。
我が子を陸に揚げた折、無念さに拳を握りしめて深い傷を作った父はすでにない。
今でも母は弟の写真の前で、笑って声をかける。
「元気にしてますか? マーチャン」
弟さんが、なぜ嵐の海の中に漕ぎ出していったのかは書いてはありません
ひょっとすると、本人にもわからなかったのかも・・・
多感な時期に、自分の夢がかき消されていく辛さをぶつけたかったのかもしれない
伊集院さんは、自分が家を出なければ弟は死なずに済んだときっと思われたと思います
そして、その十字架を一生背負っていく
伊集院さんの読者からの質問に対しては、かなりきつい言葉も含まれています
ただ、その中に深い重みがあります
人は誰でも見せないだけでその背中に傷を持っていますが、それがその人の深み・重みを作り出す糧(かて)となっているとも思います
Posted by 尾上 正 at
06:27
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2018年12月05日
素直になると、優しくなれる
高野登、志賀内泰弘著
「また、あなたと仕事がしたい!と言われる人の習慣」から
親子というのは、関係が近いだけにお互いにわがままを言ったりして難しいものです。
親は子供のためにと思い、ついつい口うるさくなる。
子供は子供で、感謝はしているけれど素直になれない。
さて、友人が酒の席で、問わず語りにこんな話を始めました。
東京で働いている23歳になる娘がいます。
この娘、小さい頃はお父さんっ子で、お風呂に入るのも一緒、寝るときも一緒でした。
ところが、小学5年になったあるときから、「お父さんとはお風呂に入らない」と言い出しましてね。次第に私から離れていき、高校生になると、私が帰宅した車の音がするだけで自分の部屋にこもってしまうようになりました。
娘は、「お父さんから離れたい」と言い、わざわざ東京の大学に進み、東京で就職しました。
私は寂しくて、娘にはがきを書き始めました。
「おまえのことをいつも思っている」と伝えたいために。何通も。
でも、一度も返事の便りはありませんでした。
1年近く経ったある日のこと、上京して、妻と2人で初めて娘を訪ねました。
娘は、「仕事があるから」と言い、夜8時に渋谷駅のハチ公前で待ち合わせしました。
「どうしても、そこで、その時間」だと言うのです。
私たち夫婦は、「男友達でも紹介されるのか」と心配しながら、少し早めに行きました。
娘も間もなくやつてきました。
でも、「8時までここで待って」と言うのです。
ますます不安になりました。いったい誰が来るのだろう……。
8時になりました。すると、「ほら、あそこ」と、娘がビルの壁の大きな電光掲示板を指差しました。
そこには、「おとん。おかん。めいわくかけてゴメンナサイ」という文字が映し出されました。
それを見た瞬間、涙でもう何も見えなくなっていました。
娘はそんな私たちを見て笑っていました。気持ちがつながったと感じました。
妻も隣で泣いていました。
時折ふらっと帰ってくる娘は、日付順に整理されたはがきのファィルを見せてくれます。
親というのは、世界中のどこにいても子供のことを思っています
たとえ、命がなくなったとしても、空の上から見守っている
「親の心子知らず」という言葉もありますが、子供も本当は心の中ではわかっているはず・・
ただ、あまりにも近いので、なかなか言葉では出しにくい
大切なものは、いつも身近にありますね
Posted by 尾上 正 at
08:27
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