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2018年12月12日

心の傷が、人に深みを与える

伊集院 静氏 「いろいろあった人へ」から

この季節、大きな台風が日本に近づくと、四十数年前の夏がよみがえる。

四十四年前の七月、弟は一人で海へ出かけた。

台風が近づいていた。

瀬戸内海沿いの港町の、それも波音が聞こえる町で生まれ育った私も、弟も、台風がどれだけ危険かは幼い頃から十分過ぎるほど知っていた。

子供の頃、高潮で堤防が決壊し、生家も一階まで浸水したし、台風が来る度に必ず何人かの大人、子供が亡くなった。

台風だと聞いたら、海へ絶対に近づくんじゃないぞ。 一人で出かけたら承知せんぞ。

ガキの頃から耳にタコができるほど言われて来たことを海辺に住む子供は守った。それは生きる術でもあった。

なのに弟は隣町の浜へ行き、 一人でボートを漕ぎ出し沖へ出た。

なぜそんなバカなことを、と弟が死んだ後に何度も考えてみた。十七歳だった。

サッカーの選手で、あとで聞けば二年生ですでに中国五県のベストイレブンに選出されるほどの選手だったらしい。

弟は私と違っておとなしく、こころねのやさしいところがあった。

静かな者ほどいったん自信を持てば頑固な点がある。

しかし荒れはじめた沖合いに彼が一人でボートを漕ぎ出したのには他に理由があった。

当時、二十歳であった私が父と、家業を継ぐことで諍いになった。

父は激怒し、私を勘当し、弟を医者にさせ病院を経営する考えを弟に告げ、彼も納得した。私は家を出された身なので、それを知らなかった。

でも弟にも彼の人生の夢があった。

冒険家になる夢であった。彼はそれをかなえるべく冒険家になる体力を鍛えていたのだ。

少しでも時間ができれば筏を作ったり、ボートを漕ぎに行っていたらしい。

弟が行方不明の報せが入ったのは、その日の夕刻で、海の家の主人から弟がボートで沖ヘ行ったまま戻って来ていない、と報された。

私も夜の飛行機で山ロヘ向かった。

夜半の浜で二十数名の男たちが父を中心に捜索をはじめていた。

ボートはすでに空のまま浜へ揚がっていた。

両方の岬の岩場を中心に男たちが弟の名前を呼びながら波音の中を探した。

父は呉沖で戦艦陸奥の引き揚げをしていたサルベージ船を強引に呼んだ。

母は弟の名前を呼び、浜を一日中、雨に濡れ歩いていた。父に言われ、私は母を迎えに何度も浜へ出た。

十一日目の夜明け方、海に浮き上がった弟を見つけたのは母であった。

一瞬の浮上だから、船で急いで沖へ行き、私は海へ飛び込み弟を抱いた。すでに息絶えていた。

検死の医者が戸板の上の弟を診ている時、母は大声で言った。

「普段、身体を鍛えている子でございます。先生、どうか生き返らせて下さいませ」

あれから半世紀近くになったのだ。

我が子を陸に揚げた折、無念さに拳を握りしめて深い傷を作った父はすでにない。

今でも母は弟の写真の前で、笑って声をかける。

「元気にしてますか? マーチャン」



弟さんが、なぜ嵐の海の中に漕ぎ出していったのかは書いてはありません

ひょっとすると、本人にもわからなかったのかも・・・

多感な時期に、自分の夢がかき消されていく辛さをぶつけたかったのかもしれない

伊集院さんは、自分が家を出なければ弟は死なずに済んだときっと思われたと思います

そして、その十字架を一生背負っていく

伊集院さんの読者からの質問に対しては、かなりきつい言葉も含まれています

ただ、その中に深い重みがあります

人は誰でも見せないだけでその背中に傷を持っていますが、それがその人の深み・重みを作り出す糧(かて)となっているとも思います

  


Posted by 尾上 正 at 06:27Comments(0)